突然ですが、僕はある性質を持っている人とは基本的に関わらないようにしています。
どんな性質を持っている人かというと、
・息を吐くように嘘をつく
・自分は1ミリも動かないのに、口だけ動かす
という人たちです。

今日は、「自分は1ミリも動かないのに、口だけ動かす」という人たちについて。
例えば、小さな子どもが泣いたり騒いだりしているときに、その子どもに微笑んだりあやしたり、あるいは直接注意を促すようなことをするのではなく、保護者にキレたり文句を言う人。
果物などが傷んでいるのをみて、自分は食材を買ったことなどないのに、「最初から悪かったんじゃない?」とか言う人。
選挙にさえ行かないのに、政治の愚痴を言っている人。
こういう、自分は全く行動をしていないのに、口だけ出すという人とは、なるべく関わらないようにしています。

言動がすごく暴力的な人とか、サービス提供者に対してものすごく高圧的な態度を取ってくる人は、すぐに分かるので、その後関わらないようにするのは簡単なのですが、「自分は1ミリも動かないのに、口だけ動かす」人というのは、ものすごく柔和な態度の中に現れることもあるので、すぐさま関わりを断つように判断するのは少し難しかったりします。
でも、30年ちょっと生きてきて分かったのは、そういう人と関わると逆に自分自身が疲弊してしまうということ。

既に気づいている方もいるようですが、去年、このブログのコメント欄を消しました。
何年も前の、我が家の子どもたちのことを書いた記事に、誰だか全く分からない人から、僕の行動を非難する内容のコメントが書かれました。
それを書いた人のことは直接知らなくても、コメントで書かれていたことの中には僕が反省すべき点があるのかもしれないと思い、悩んでしまいました。
でも、考えてみたら、そのコメントを書いた人は全く誰だか分からないし、僕と子どもたちに直接何か関わる人ではなく、単にその人にとって気に入らない行動を取っている僕がいて、その人の意のままに僕をコントロールしようとしているだけ。
例えそのコメントの中に、「正しい」ことが書かれていたとしても、そんな直接関わる事のない人の意見自体を受け入れる必要はないだろうと思いました。
それ以降、そういう性質を持つ人たちとは接触しないようにコメント欄自体を消しました。

そういえば、もう何年も前にお会いしたこの方↓もこの著作の中だったか、直接お話を聞いた時に、同じようなことをおっしゃっていました。


経産省の山田課長補佐、ただいま育休中 (文春文庫)


例え自分の親であれ、実際に自分の子どもたちの子育てに関わる人からの意見以外は聞かなかった、と。


親であっても一緒に生活していない人であれば、関わらないようにする方法はいくらでもあるのですが、一緒に暮らしているとそういうわけにはいきません。

ツレには、普段から、残業はいくらでもして良いから、家で仕事をしないで欲しいと言っているのですが(家で仕事をされ、家事・育児を全くしない邪魔な存在が増えるよりは、いない方が良いので)、僕自身は全ての家事と子どもたちの送迎などの殆どを担っている関係で残業を基本的にしません。
なので、勤務先の滞在時間内にいかに仕事を片付けるかが外勤時の最重要事項で、それでも終わらなかった仕事や家で出来る仕事は家でするようにしています。

先日、勤務先で片付けなければならない仕事はなんとか片付けたものの、家でたくさん仕事をこなさなければならない時がありました。
当然、その仕事は、家の仕事をやりながら進めなくてはならないので、洗濯掃除買い物などを済ませ、空いた時間にこなします。
その日はツレが休みの日で、普段ならツレが子どもの習いごとの付き添いをする日でした。
ですが、ツレが仕事ではない予定を入れたため、僕に付き添いをするように言ってきました。
それまでの数週間、すでにツレは同じ曜日に休日出勤をしていたので、習いごとには数週続けて僕が付き添っていたのですが、仕事が休みにもかかわらずツレは予定を入れ、僕に付き添いを押しつけてきました。
僕自身のやらなくてはならない仕事もかなり溜まっていたので、「やらなくちゃいけない仕事もたくさんあって付き添いに行く時間がない」と答えました。

そして、その時、僕は何をしていたのかというと、家計簿を付けていました。
それを見たツレが一言僕に「家計簿なんて付けなくて良い」と言ってきたのです。

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ツレは料理も洗濯も掃除もしないので、基本的にツレにとって必要なもの(仕事で使うものや衣類、生理用品など)以外を買ってくることはありません。
あらかじめ決められた金額を毎月の給料から家計口座に振り込むだけです。
そうすると、僕がその金額の中からやりくりして買い物をし、食事を作り、掃除をし、洗濯をし、と5人での生活を回していきます。

家事を全くしないツレにとっては「家計簿を付ける」という行為は無駄なことだと見えたのでしょう。
ここで、家計簿を付けるということが無駄か無駄じゃないかという話は重要ではありません。

重要なのは、「全く何もやらない人が、何故口を出すことが出来るのか」ということ。
家計を管理し、その中から買い物をし、料理を含めた家事を担っている人が、「(家事の中の)これはやらなくても良いかも」と判断することとは違います。
あまりにもむかついたので僕がツレの仕事(教員)を「やめれば?」と言ったところ、急にツレは怒り出したのです。

ツレは全く自覚がないようですが、この反応には2つの大きなポイントがあると思います。
①自分が言ったこと(「家計簿付けるのやめたら?」)の意味を理解していない。
②家事を自分の仕事(教員)よりも劣った仕事だとみなしている。

僕は今回のようなことをツレから言われ、自分が言っていることがどんなことなのかを理解してもらおうという意図以外でツレの仕事に口を出すことはありません。
非常勤で同じような仕事をしているとはいえ、勤務先もそこにいる人間も、立場も何もかも違うので、全く口を出すことはありません。

ですが、僕が全てを担っている家事をツレは自分が全く何もやっていないにもかかわらず口を出してくるのです。
これは、家事だけでなく、どんな仕事をしている人にもあてはまることです。
実際にやっていない人が、ある人の仕事を傍から見て、「ねぇ、あんなことしないで良いんじゃない?」とか言えば、張り倒されるでしょう。
で、実際に、ツレが僕に対して言った言葉がどんなことなのか全く自覚していないので、僕に「そんな仕事やめれば?」と言われると、僕がものすごく失礼なことをツレに言ったとツレは急に怒り出したのです。

ツレは、他の仕事をしている人にはそんなことを(多分)言わないわけで、じゃあ、何で僕がやっている家事に口を出すのかと言えば、「家事は(少なくとも)自分がやっている仕事(教員)より劣ったもの」と無意識であれ認識しているからです。
全くやったこともない仕事であっても、家事であるからこそ、自分も何か言える立場であると勘違いする。
これは、家事という仕事を軽んじているからこそ出来ることだと思います。

育休を取り、家事育児を担っている人に対して、「良いなぁ、休みで」と言う人のように。
「主婦/主夫って(楽そうで)良いよな」とか言ってくる人のように。

医師がカルテを書いている様子をみて、「そんなことしなくて良いんじゃないですか?」とあなたなら言いますか?
でも、家事をしていなくても、家に関わることを担っている人に、「そんなことしなくて良いんじゃない?」と言ったことのある人はどのくらいいるでしょうか?
子どもの時に親に、大人になって配偶者に言ったことのある人は多いのではないでしょうか?

家事・育児というのは、基本的に「家」の中で行われ、あまりにも日常に近く、明確な目標や期待される結果が定まっている仕事ではなく、日常に密接しているにも関わらず他と比べる機会も少なく、日常に関わること全てが家事という仕事の範囲も明確ではないということから、自分が門外漢であり、全く何もしていなくても口を出して良いと勘違いしてしまうのでしょう。
でも、勘違いしやすく、勘違いしてしまうのだとしても、家事を軽く扱って良いことにはなりません。
家事を何もしていないにも関わらず、「そんなことしなくてい良い」と言ってしまうのは、家事を「仕事」として明確な範囲を設定して依頼する家事代行業の人にだけであって、そうではない数多の家事を担っている人へ言って良い言葉ではありません。
その言葉は家事という仕事を、家事を担っている人を軽んじているのです。

僕はこういう性質を持つ人を総じて「昭和のオッサン」と名付けていますが、まさにツレはこの「昭和のオッサン」です。
最初に書いたように僕はなるべくこういう「昭和のオッサン」とは関わりたくないので、今回の出来事で、より明確に子どもたちが大きくなった時にはツレとは別に生きていこうという決意が強固になりました。
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2017.02.22 Wed l 日々雑感 l top
ツレへの愚痴を度々はき出していますが(「パラレル家事」「イライラの原因は仕事範囲の認識のズレ」)、先日もまたイライラというか、すごく困った事態が発生しました。

それは平日のお昼頃の出来事でした。
長男&次男が通う小学校から電話があり、季節的にインフルエンザが流行っているので、「発熱でもしたのかな?」と予想して受話器を取ると、養護の先生からではあったのですが、インフルエンザではなく、次男がケガをしたとのことでした。

ケガの内容は、掃除の時間に遊んでいて、滑った表紙に左耳を机にぶつけ、耳介をひどくぶつけてしまった、というものでした。
「出血も収まったので、病院に行くかどうかは任せますが、様子をみて下さい」とのことでした。

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先生にお礼を言い、ケガの具合は直接見てはいないものの、今までの経験から軽いケガでも病院に行った方が良いと思い(本人による過失でも記録に残るため)、下校の時間が近かったので保険証&医療証を探したのですが、、、ない。

僕は必ず医療証や保険証などはとても大切なのものなので決めた場所に入れておくのですが、見当たりませんでした。

この日はムスメと次男の習いごとの日で、ケガの次第ではムスメの習いごとも休ませ病院に行こうと思ったのですが、保険証&医療証が無ければ病院に行くことが出来ません。

結果としては、保険証&医療証を勝手に定位置から移動させていた(というか戻していなかった)ツレに責任を持って帰宅し次第次男と病院に行ってもらった訳ですが、「定位置から移動させる」「そもそも定位置があることさえ知らない」ということを、普段殆ど関与しない人がよくこの行動を取るので本当に厄介です。

今回の場合、保険証&医療証が無くなった訳でもないですし、病院になんとか間に合う時間に行くことは出来ました。
でも、保険証&医療証が定位置にあれば、次男が下校してすぐに病院に僕が連れて行くことが出来、ツレの帰宅を待って病院に行ったために次男の風呂と夕食の時間が大幅に遅くなることも無かったわけです。

普段家事・育児に殆ど関わらず、責任を持っていない人は、「定位置」ということを軽んじたり、あるいはそもそも知ろうとしません。
例えば、ツレは食事を作らないので、匙などの調理道具の定位置を知りません。
なので、時々ツレが僕が料理をした後に洗い物をすると、調理道具を片付けるのですが、全く違う場所に入っていることがあります。
食器であれば、まぁ、最悪見つからなくても他のものでも問題ないのですが、調理器具がないと本当に困ります。
それを探すだけでタイムロスしますし、本当に「定位置から移動させる」のは勘弁して欲しいのです。

食器や調理器具などであれば命に関わったりすることもありませんが、もしこれが、緊急を要するものだったりしたら。
まぁ、ものすごいケガだったら、後から保険証や医療証を提出することにはなりますが、それでも、そこにあると思っている定位置にないということは、病院に付き添ったり、学校や保育園から呼び出される身としてはかなり困ります。

育児家事をしないこと自体も家庭にいる人間としてどうかと思いますが、100歩譲って家事育児をしなくても良いから、邪魔だけはしないでほしい。
今回、保険証&医療証が定位置になかったのは、年始にツレがツレ母の誘いで子どもたちと一緒に旅行に行ったときに持っていったからでした。
病院への付き添いの90%以上をこなしている僕が必ず入れている定位置をツレも認識しているからこそ、そこから持って行ったわけなので、終わったらすぐに同じ場所に戻して欲しい。

家事育児をしない人は、そもそも「定位置」というものがある、ということを知りません。
そして何かをしようとすると、「定位置」から移動させるので、普段担っている人はストレスを感じます。
なので、家事育児をしていない人は、まず「定位置を知る」ことから始め、その「定位置に戻す」ということをしていって欲しいと思います。
2017.02.20 Mon l 日々雑感 l top
ずっと前から僕は言ってるけど、あんまり相手にされないので、放っておいたというか諦めていたことの一つが配偶者の呼称です。
女の人が夫のことを「主人」とか「旦那」とか言っているのを聞く度に、「あなたは奴隷か、はたまた雇用関係でもあるのですか?」と(基本的に心の中で)突っ込みを入れています。
男の人も割と「うちの嫁が~」とか、「奥さん」とか言うので、「お前の息子はもう結婚したのか」とまたもや心の中で突っ込みを入れたり、やっぱり女性はいつまで経っても男性・家の付属物なんだなぁ、と思ったりしています。

僕の中では、結構うんざりするくらい突っ込むのが当たり前のことになっていたので、ブログに書いていたと思っていたのですが、どうやら一度もこの話を書いていなかったので、改めて書いてみようと思った次第です。

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何故、うんざりするくらいのこの「主人」「旦那」「嫁」「奥さん」という配偶者呼称問題について触れようと思ったのかというと、ちょっと前に、作家の川上未映子さんのコラムを読んだからです。

川上未映子「主人」という言葉が心底嫌い(日経DUAL)

川上さんが書いていることに全面的に同意するので、もはや僕としては書き加えることなどないのですが、全面的首肯部分をちょっと引用してみたいと思います。

そう、どんな文脈であれ、やっぱり主人は主人だ。ご主人さまだ。言葉っていうのは、どうしてなかなか厄介なもので、使っているとその言葉のもつ意味は、けっこう心身にぐいぐい侵食してくるものなのだ。



そう、これ。
言葉にこだわり過ぎだと僕なんかは言われる方で、そうすると、「あぁ、みんなあんまり気にしてなくて、気にする僕が普通では無いのか」と思ってしまいます。
川上さんが言えば、「彼女は作家だから言葉に敏感になるのは当然」と受け入れられているように思うのですが、やっぱり作家だろうが一般人だろうが、言葉を使って生活しているのだから、言葉に縛られているわけです。

誰かが僕のことを「○○くん」と呼べば、学生時代の教員でなければ、「あぁ、この人は僕を下に位置づけたのだな」と僕としては認識するわけで、それと同じように誰かが配偶者のことを「主人」と言えば、「あぁ、この人は奴隷なのか」と僕は思うわけです。

これはその言葉を受け取った側の僕という人間の捉え方ですが、やっぱり言葉ってのは何かを規定したりする力があると思います。
「僕はダメな人間だ」と毎日言っていたり、言われ続けていれば本当にダメになっていくだろうし、「きっと大丈夫だよ」と言い続けてくれる人が周囲にいれば、どんなにひどい状況でも「うん、大丈夫」と思える。
そういう力を言葉ってのは持っていると思います。

川上さんも指摘しているように、僕がこの「主人」「旦那」「嫁」「奥さん」という言葉で気になるのは、その言葉を使っている人たちが、実際に主従関係にあったり、「家」制度が色濃く残っていた僕の両親(団塊とかそれより少し上)とか、祖父母(明治生まれ)とかの世代だったら、「そういう時代だったんだろうな」と思ってなんとか飲み込めるのですが、僕と同じとかその下(20~30代)でも頻繁に使われていること。

一緒にお話ししているときに「うちの主人が~」とか話をされると、川上さんの言う「知性は最低ランク」ということなのかも知れませんが、「あぁ、マジか」と幻滅してしまいます。

じゃあ、どんな呼び方すれば良いのか、ってことなのですが、これは普通に名前で良いんじゃないかと思います。
そうすれば、この「主人」「旦那」「嫁」「奥さん」とはちょっと違った意味で「?」と思ってしまう、配偶者のことを「パパ」「お父さん」「ママ」「お母さん」と呼ぶこともなくなりますし、聞いている人にも親しみが出て来て良いと思っています。

でも、この配偶者を名前で呼ぶということ、僕が結婚したばかりの時に「結婚して身内になったのだから、名前で呼ぶのはおかしい」と言われたことがあります。
僕も22歳で、相手も目上の人でしたし、関係を壊してしまうのを恐れて反論しませんでしたが、「身内」ってのもやっぱり「家」制度を前提にしているんですよね。

だから、僕は配偶者のことを名前で呼ぶのが良いかな、と思っています。
今考えれば、「身内なのにおかしい」と言ってきた人は僕の倍くらいの年齢なので、世代が違うから、ということで流せば良かったと思います。
2017.02.14 Tue l 日々雑感 l top
ツレに「なんでそんなにイライラしてるの?」と火に油を注がれ、余計にイライラが募る、という日々を過ごしています。
ツレにブログを再開したことは伝えていなかったのですが、どうやら読んでいるようで、先日の家事でのイライラを解消する為の方法を書いた記事(「パラレル家事」)も読んでいるはずなのですが、ツレ本人には僕をイライラさせているのは自分であるという自覚は皆無なようです。

他の主夫/主婦の人たちと話していると、「パートナーには家事・育児が向いていないんだから、向いている方がやれば良い」、「相手を変えることは出来ないから自分が変わるしかない」とか、「パートナーを支えるのが一番の仕事」という、諦めや悟りを開いている人たちが多くいます。
でも、僕は相変わらずそんな悟りは開けず、「大人なんだから最低限自分のことは自分でやれよ」とか「家にいるんだから、いるときくらい家事しろよ」と思ってしまいます。

ツレにはブログに書いても伝わらないようですが、何故イライラするのか、先日の「パラレル家事」とは違った原因があったことに気づきました。

それは、ある家事に対して求めていること(仕事の範囲)と相手が考えている家事の範囲が違う、ということ。

具体的には、先日のある土曜日のこと、僕が出かける用事があり、ツレの仕事も休みだったので、洗濯物を半分僕が干したあと、残りの半分をツレに任せて出かけたときのことです(我が家は洗濯物が多いので毎日最低2回洗濯機を回します)。

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昼頃帰宅し、ムスメやツレが昼寝(夕寝?)から覚め、洗濯物を取り込もうとベランダに向かうと、何故かツレに頼んだはずの洗濯物がムスメやツレが寝ていた部屋に干してありました。
その部屋はベランダにつながっている部屋なのですが、湿気がひどい部屋で、洗濯物が乾くことはありません。
昼寝をするために、窓も閉めていたので、当然空気は通らず、洗濯物が乾くはずがありません。

これに直面した僕はイライラが急上昇したのですが、ツレには何故怒っているのかまるで分かっていない様子。
そこで最初に書いた言葉をかけられ、沸点を通り越したわけなのですが、何故こんなことが起きたのかというと、僕がツレに任せた「洗濯物を干す」という仕事の範囲とツレが考えている「洗濯物を干す」という仕事の範囲が違うから来ているのではないか、と思いました。

僕が「洗濯物を干す」ときには、洗濯物を干すだけではなく、遅くても日没までにその干された洗濯物が乾いてることが結果として求められます。
雨だったら浴室乾燥機を使い、晴れてても風のない日は、厚手の洋服も乾くように配置や順序を考えて干します。

が、ツレにとって「洗濯物を干す」ということは、言葉通り「洗濯物を干す」だけ。
それが10時間経って乾いていようが乾いていまいが関係がありません。
ツレにとっては「洗濯物を干す」という仕事が終わっているので、その後それらの干された洗濯物がどうなっていようが、もう自分の仕事の範囲では無いのです。

このズレが僕のイライラを生んでいるのです。

洗濯物が長時間干していても乾いていないということは、洋服も臭くなってきたり、それ以外にもある無数の家事をこなす上でも順番が変わってきたり、余計な家事(乾くように浴室乾燥機にかける←するとその時間誰も風呂に入れないし、乾いたあと(夜遅く)に畳まなくてはならない)が増えます。
だから僕にとっては、「洗濯物を干す」ということは、「乾く」ということも当然その中に入ってきますし、時間も「日没まで(夏場は夕方まで)」になります。

普段何も家事をしないツレにはイレギュラーで発生した「洗濯物を干す」という仕事なので、その他の家事に影響することや洗濯物が臭くなること、皆が寝ている部屋に干せば洗濯物が乾かないばかりか余計にその部屋が湿り、カビが発生するということはどうでもよく、「洗濯物を干す」というだけでその仕事が終わったと判断してしまうのでしょう。
だから、「夕食を作る」ときには、使った調理道具を洗わずに放置出来るし、夕食の時間に間に合わなくても関係なく、「ゴミを出す」とは家の中にあるゴミを集めてゴミ集積所に出すことではなく、僕があらかじめ家の中から集めて玄関に置いておいたゴミ袋を集積所まで「運ぶ」ことと認識し、「洗い物をする」とは食器に付いた油などが取れていれば良く、その後乾いていようがシンク周りが汚くても水浸しになっていても、「仕事が終わった」と判断するのでしょう。

あらゆる家事で発生するこの仕事の範囲の認識のズレを埋めるための解決策はあるのか。
いつも担っている人が丹念に説明するということが一番分かり易いのかも知れませんが、10年以上一緒に生活していると「そんなこともわからないの?」と思ってしまいます。
ということで、結局、皆、諦めるか悟るかになってしまうのだな、と納得はしたものの、結局悟ることの出来ない僕はどこにもこのイライラを解消する方法はありません。

他の方法としてイライラしないためには、イライラの原因であるツレがいなければ良いので、「(邪魔なので)帰ってくるのは21時以降にしてくれ」とことある毎に言っているのですが、実行してくれず、結局イライラが溜まるばかりで、更に「何故イライラしてるの?」と油を注がれる日々。

早く子どもたちが成長したあかつきに、僕がこの家から出ていく日を刻々と夢想しています。
2017.02.12 Sun l 日々雑感 l top
先日、誕生日を迎え33歳になりました。
今年は、誕生日を迎えるにあたって、すごく小さな事ですが、今までとは変えたことがあります。
それは、Facebookで誕生日を公開しないようにしておいたことです。
Facebookは誰かの誕生日になると「今日は○○さんの誕生日です!」とか通知されるのですが、僕のが友だちたちに通知されないようにしました。

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なんでこんなことをしたのか。
それは、お祝いの言葉をかけられても、どうしたら良いのか戸惑ってしまうから。
そこまで親しくない人からのメッセージだからということではなく、「誕生日おめでとう」と言われても、どうしたら良いのか分からないのです。

何が「おめでとう」なのか。
特に、30歳を過ぎてから余計に分からなくなってきました。
単に老いること、中年への恐れではなく、何故今生きているのか分からないからです。

26歳の時に、鬱病になり、そこで終わるはずだった人生が何故か生き延びてしまい、7年も経ってしまいました。

先日、鬱病に追い込んだ人間や組織が不起訴になったという報道を見ました。
三菱電機、不起訴処分に 長時間労働、嫌疑不十分で(朝日新聞)
三菱電機は不起訴=長時間労働「嫌疑不十分」-横浜地検(時事通信)

鬱病に追い込まれた人は病気になり、仕事を辞めることになる一方、鬱病に追い込んだ人や組織は何も傷を負うことがない。
僕を鬱に追い込んだ人たちや組織は三菱電機以上に最悪で、僕を鬱病にしたとは認めず(医師の診断があるにも関わらず)、認めなかったからこそ、それ以降何の責任も取らず何も起きなかったように過ごしています。
それらの人たちや組織については、もはや何も思うことはありませんが(「思う」ということでさえ関わりたくない)、何故その時に僕は死ななかったのだろうか、と思います。

結局僕はあのときから何も進んでいないどころか、むしろ年を取るだけで後退しているのではないか。
後退しているだけで進むことがないのなら、何故あのときもっと真剣に死に向かわなかったのだろうか、と。
26歳の時から年を取れば取るほど、そこからの時間が経てば経つほど、何故生きてしまっているのか、という思いは強くなってきます。

ぐるぐるぐるぐると色んなことを考えては、結局どこにも行き着く先はなく、漠とした不安や自分が必要とされているという実感を全く持てない中、今年も子どもたちに「誕生日おめでとう」と言われ、どう応えたら良いのか戸惑いつつ誕生日を迎えました。
2017.02.04 Sat l 日々雑感 l top
先日、秘密結社 主夫の友に、学生に家庭内インターンを提供しているスリール株式会社から「学生たちに主夫として話をしてほしい」という依頼がありました。
基本的に人前に出る依頼(TVなどで大勢集まって欲しいと言われる時以外)はCEOや広報担当の2人が行くのですが、今回は、メディアに出る依頼ではないということで、他のメンバーが渋ったので(平日夜や休日は主夫にとっては都合が付きづらいということで)、僕もツレが仕事だったので子どもたち3人を連れて行ってきました。

話をしたのは、子どもがいる家庭に4ヶ月のインターンをしている学生たち40人(女性9:男性1)で、インターン期間の半分(2ヶ月)を終えての研修ということで、学生たちが興味を示した生活スタイルを送っている4人のうちの1人(主夫)として呼ばれました。
他に呼ばれていたのは、ファザーリング・ジャパンでもつながりのある育休を数回取得したTさん(共働き男性)、転職を数回経験し共働きで子どもが2人いる女性、専業主婦経験がありかつてスリールでインターン経験のある女性でした。

まず、4人が5分ずつくらい自己紹介し、司会に質問される形でのやりとりが30分、その後1時間は学生10人のグループが15分ずつ4人の話を順番に聞くという形でした。

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僕としては主夫の友経由での依頼だったので、「主夫」としての生活について質問が中心になるのかと思っていました。

が、最初の自己紹介の時に司会をしていた方もそうだったのですが、僕のプロフィールで「事実婚」ということも興味を持ったようでした。
自己紹介では「夫婦別姓」やそれによる「事実婚」については僕からは話さなかったのですが、司会の方に質問される形で答え、そこでのやりとりが短かったからか、学生たちからも多く質問されました。

①なぜ、事実婚にしたのか?
②なぜ、夫婦別姓にしたいのか?
③事実婚のメリット、デメリットは?

中心となる質問はこの3つでした。

①と②は重なる部分が沢山ありますが、姓というのは「アイデンティティ」であり、僕は姓を強制的に変えられたくないし、誰にも姓を変えることを強要したくない(変えたいと思っている人に変えないことを強要したくない)と考えていることを話しました。
また、夫婦別姓についての基本的な話として、僕が結婚する以前から(確か中学生くらいの時から)選択的夫婦別姓制度については国会で話が出て来ていて、国連の女性差別撤廃委員会からも勧告が出されていました。
なので、僕も結婚当初、楽観的に「そろそろ民法も変更されるだろう」と考えていたこと、でも、2015年の最高裁の判決では、20年以上も何もしなかった「国会」に話を差し戻し、選択的別姓制度がないことによる不利益・不都合さは「通称使用で緩和される」と一度も改姓した経験の無い人間によるばかげた理由を用いたことで、民法が改正される見込みがないと判断したということも話しました。

③については、「実感(感覚)」という部分と「制度」の話は別にしなければいけないと思ったので、まずは「制度」について話しました。
事実婚では
・配偶者控除がなくなる。
・親権が片方になる。
・死んだ際、相続が出来ない。
・その他、病院や保険など、その組織に判断がゆだねられているグレーな場面がたくさんある。
配偶者控除以外は、親権ならば共同親権に関する契約をし、相続に関しても遺言を残すことで受け取る事が出来ます(が、相続税は配偶者よりかかってしまう)。
また、僕らが入っていた保険は、法律婚を解消しても名前の変更だけで大丈夫でした(これは保険会社によるので確認が必要)が、病院などによっては、例え配偶者であっても、同居している親であっても、親権がないことで面会出来なかったり、手術の同意書に署名出来ないことがあります。
でも、その場合に不利益を被るのは僕であること(親権はツレであり、子どもたちの姓はツレの姓)、僕らはそもそも配偶者控除の適用外だったので、事実婚にすることが出来たました。

そして、「実感(感覚)」部分ですが、昨年末の次男とのスペイン旅行でも、僕が一番懸念していた入管でも全く問題にならなかったことも話しました(スペイン出国時に「親子?」と聞かれたのみ)。
これには、驚いていた方も多かったのですが、僕自身もそうですが、いかに「親子は同じ姓であることは当たり前のこと」という認識が根付いているということを表しているように思いました。
日本では当たり前のことであっても、世界ではそうではないかもしれない。

僕自身はそれを意識するきっかけとなったので、学生たちも少しでもそういうことを考えてもらえるきっかけとなったら良いな、と思います。
2017.01.30 Mon l 夫婦別姓について l top
先日、母校&出身学科の公開講演会に行って来ました。

文学部キリスト教学科主催 公開講演会 キリスト教の「家族主義」を考える ――クィア神学の視点から

1.講演の中身

講演者は、堀江有里さん。
日本キリスト教団の牧師(講演日現在は無任)で、レズビアンをカミングアウトしている社会学者・神学者です。

講演内容を要約するのは難しいのですが、LGBTs当事者に限らず「家族主義」あるいは、「家族第一主義」にとらわれているのではないか、という問いかけとそれに対する堀江さんの応答が発表されていました。
「家族主義」、「家族第一主義」がどのように現れているのかを、米国の流れ、聖書での描かれ方(特にイエスの時代)、教会における「結婚」の捉えられ方からひもとこうとされていました。

質疑応答では、堀江さんの聖書解釈が果たして妥当なのかどうか(血縁家族の解体から新しい共同体を構築しようとしているという読みに対して、むしろイエス(あるいは神)を頂点とした新たな「家族主義」を目指していると読めるのではないか)、何故日本では女性の牧師が少ないのかということなど、キリスト教内部(関係者)にとっては興味深いやりとりだったと思います。

2.あらゆる場で頻出している「post-truth」

でも、僕はこの講演(1時間)、そしてその後の質疑応答(1時間)の中で、最も肝心なことが触れられていないように思いました。

昨年末、世界最大の英語辞典を発行するオックスフォード英語辞典が「今年の言葉」として選んだのが「post-truth(ポスト真実)」でした。
「ポスト真実」が今年の言葉 英オックスフォード辞書(BBC)
これは、「客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞」です。
具体的には、イギリス、アメリカでの状況を踏まえて選ばれた言葉なのでしょうが、この「post-truth」は今に始まったことではなく、今までもあったし、さらに政治の場面だけでなく、どこにでも起きていることなのだと思います。

今回の講演では、聴衆は「関心のある人」に限られ、質疑応答でも、学問的あるいは整然と自分の考え方を伝え、それに対して、学問的あるいは整然と反論あるいは自分の考えを伝えるということが行われていました。
学問の世界ではそれで良いのでしょうし、それが「ルール」でもあるのですが、僕(たち)が直面しているのは、そのような応答が出来る場ばかりではありません。

3.オブラートに包まれた「post-truth」

以前、僕が職場でLGBTsについて語ったとき、それに対しての反応を伝えられたことがありました。
その時に伝えられたのは、

「あの場にはふさわしくないのではないか」

ということでした。

また、僕が人から聞いたことのある話としてこんな出来事を聞いたことがあります。
ある男子校で生徒会選挙の際、1人の立候補者が自分がゲイであることを告白しました。
それに対して、1人の教員がその生徒を呼び出して「あの話(ゲイを告白したこと)はあの場にはふさわしくない」と伝えたそうです。

この時使われている「ふさわしくない」という表現こそが、まさに「post-truth」だと思うのです。
例えばキリスト教では、特に21世紀に入ってからというもの、世界中の教会で分裂するような課題になっているのが「同性愛をどう扱うか」というものです。
その時、まだ聖書を用いて「聖書にはこう書いてあるからダメなんだ」と言ってくるのなら、反対に聖書を用いて「聖書にはこう書いてあるから問題ではない」ということもできるでしょう(聖書を恣意的に用いることが適切かどうかなどの課題はひとまず横に置いておきます)。

でも、実際は「同性愛なんて気持ちが悪い」、「同性愛は病気である」、「同性愛者なんていなくなれ」というような考えが根底にあるにも関わらず(本人がそれを認識しているかどうかは問わず)、直接それを表明してしまうと明らかな差別になってしまうので、何重にもオブラートに包んで表明する言葉が「○○にはふさわしくない」という言葉なのだと思います。
事実や理論、そして学問がどうであろうと、「そんな話聞きたくもない」という自分の感情があり、それを伝える手段として、「そんな話をするな」というと圧力になり、「そんなのは正しい人間ではない」と言ってしまえば明らかな差別になる。

そのままの言葉を言ってしまえば逆に自分が批判される立場になってしまうかもしれないからこそ、「○○にはふさわしくない」という何重にもオブラートに包み、そして、他の人も「確かにそうなのかもしれないな」と思わせてしまう言葉を使うのです。
そして、その「○○にはふさわしくない」という言葉の最終目標は何かといえば、「その話を二度とさせない」ということです。
「ふさわしくない」あるいは「ふさわしくないのではないか」と言われた当事者にしてみれば、ふさわしくないならばその話をすることが出来なくなります。
これによって、「ふさわしくない」と言った人の嫌悪は表に出ることなく(本人も周りの人も気づくことなく)、同性愛というような当事者にとって告白することが人生においてものすごい大きな決断になることであっても、二度とそれについて語ることが出来なくなってしまうのです。

4.オブラートに包まれた「post-truth」にどう対処するか

このような「○○にはふさわしくない」という言葉や態度に対してどのように対処していけるのか、これこそが「神学」や「学問」ではなく、今現在僕たちの社会が抱えている課題なのではないかと思います。

今回の講演会では「クィア神学の視点から」ということだったので、必然的にLGBTsについての話になりましたが、他にも当てはめられるものはいくらでもあるでしょう。
また、僕が実際に経験したのは「ふさわしくない(ふさわしくないのではないか?←疑問にすることによってオブラートを強化)」という言葉でしたが、他の言葉のこともあるでしょう。
それらの何重にもオブラートで包まれているけれども、最終的には、それをやめさせたい、目の前から消し去りたいと思っている人の言葉を向けられた時、どうすれば良いのか。

それは、また同じことを語る、ということ、何度でも言うということなのだろうと思います。
「ふさわしくない」と言ってくる相手が望んでいることは、「その話を二度とさせないこと」。
だからこそ、止めてはいけないと思うのです。

2017.01.23 Mon l 日々雑感 l top
年末に高校の時の友だち(というか、高校が一緒だと大学も一緒なのですが)2人と1泊旅行に行きました。

旅行ですることは毎年特に変わらず、2日目もすぐに帰ってくるという何もない内容なのですが、今回の行き先は箱根でした。

箱根の中でも、小涌谷に近い民宿だったので、どこか行ける場所、ということで徒歩圏内にあった彫刻の森美術館に行って来ました。

箱根 彫刻の森美術館

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2人とも芸術にはあまり興味がないようで、僕がのんびり見ている間、2人は座ってたりしていたのですが、帰りにミュージアムショップでクレヨンを見つけました。
売られていたものと同じ物をネットではうまく見つけられなかったのですが、こんな感じのクレヨンです↓


ベステック デザート・色で遊ぶクレヨン(5色入) ベーシックカラー


これ、僕の伯母夫婦が創業した会社が作っているクレヨン(マジェール)なのです。
もうかなり前に、「もう作らなくなったから」と言って、僕はマジェールが好きだったのでいくつかもらっていました↓

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その後、(僕は全く経営には関係がないので、どういう権利や契約になっているのかは不明ですが)他の会社名義でこのクレヨンが発売され、人気が出、フランスのルーブル美術館のミュージアムショップでも販売されているとのことでした。

で、以前にもどこかで見つけたことがあったのですが、今回、彫刻の森美術館のミュージアムショップでも見つけました。

また、同時にこのマジェールの近くには、同じく伯母の会社(といっても伯母は経営から離れていますが)が作っているベビーコロールも売っていました。


ベビーコロール ベーシック・アソート 12色


ベビーコロールも、違う会社名で発売されている製品が人気が出て、子ども用品では割と良く見かけるようになり嬉しく思っていたのですが、マジェールも少しずつですが見かけるようになり、(僕は経営には無関係ですが、本当に小さな会社なので)本当に嬉しいです。

もし、どこかで見かけたら手にとってもらえたら嬉しいです。
2017.01.12 Thu l 日常あれこれ l top
以前書いたようなイタリアオランダ・ベルギーの旅行記的なものを書く気はないのですが、年末に次男(7歳)とスペインに行って来ました。

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サグラダ・ファミリア


実は3月に僕が僕の父親と2人でトルコに行こうということになっていたのですが、特に昨年初めに相次いだテロの影響で中止になってしまいました。

「今年はこのままどこにも行かないかもなぁ」と思っていたら、ツレが新聞に載っていたツアーの広告を見て勧めてきたのでした。
スペインには興味があったのと、とても安いツアーだったので良いかも、とは思ったのですが、今までツアーで海外旅行に行ったことがありませんでした。
ツレは忙しい時期なので、子どもたち(というか、実質的には小学生になっている長男(10歳)と次男)に聞いてみたところ、次男が「行きたい!」というので一緒に行くことにしました。

行った期間は8日間で、行き帰りともモスクワを経由し、行きはバルセロナから、帰りはマドリードから帰ってきました。

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ラ・マンチャの風車


次男は最初時差ボケもあり、早朝(3時頃)に目覚め、移動のバスの中でもたくさん寝ていましたが、ごはんもちゃんと食べていたし、体調を崩すこともなく、そして、天気も全日程晴れだったので、良かったです。

そして、海外ツアーに参加するのは初めてでしたが、子ども連れが僕らだけだったということもあり、他のツアーの方も現地の方もみんな優しく接してくださったのが良かったです。
成人男性1人だけでの参加だと「何者なの?」という感じになるかと思いますが、子どもがいる分には怪しさ(?)も軽減するようですし、なにより今回は移動がバスで勝手に連れて行ってくれる感じだったので子連れには楽でした(反面、自由に動けないのは厳しいですが)。


モスクワに滞在した時間はかなり短いのですが、これで、訪れたことのある国・地域が少し増えました↓


Create Your Own Visited Countries Map


maploco
2017.01.06 Fri l 日常あれこれ l top
新年明けましておめでとうございます。

去年(というか一昨年末)、いろいろあったのもあり、毎日更新していたのをかなり放置していましたが、今年はどうでも良さそうな話だとしても毎日書いて行こうかな、と思っています。

子どもたちも割と大きくなってきたので、子どもの話はかなり減って、山や映画の割合が増えるかも知れませんが。

みなさまにとっても、幸多き一年となりますように。
2017.01.04 Wed l 日々雑感 l top