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先日、「秘密結社 主夫の友」で顧問を務めて下さっている白河桃子さん(の著作の編集者経由で)から献本していただいたので、早速読んでみました。


(077)「専業主夫」になりたい男たち (ポプラ新書)


タイトルは以前の著作(『専業主婦になりたい女たち』)にリンクさせただけで、内容が全く伴っていないので、タイトルに期待して読むと肩すかしするかも知れませんが、とても読みやすい本でした。
「主夫の友」のメンバーやその配偶者、そして「主夫の友」の活動に関することも書かれていて、僕自身が知っている人たち、知っている事柄だから、ということも大きいのかもしれませんが、すらすらっと読めました。
まるで物語を読むような感じでした。

ですが、読んでいて、実際に白河さんとお会いしている中でも感じていた考え方の違い、「主夫」に対しての捉え方の違いも、本を通して以前よりは明確になったような気がします。
なので、その白河さんとの考え方、捉え方の違いということをメインに書いていきたいと思います。

「シュフ」はわざわざ「なる」ものなのか?

文中に出てくる僕の発言だと思われるものに対する白河さんの文章でも思うのですが、基本的にこの本は上に書いたように「まるで物語」です。
巻末に参考文献が一覧として載っているものの、その引用の仕方は「○○さんはこう書いている」という事であって、たとえば「社会調査の結果こういうことが言える(のではないか)」というようなものではありません。
つまり、白河さんの考え、結論に適したものを拾い上げてきて(それが主夫本人や配偶者の発言であれ、研究者の文章であれ)引用している、という方法なので、「こういう世界も(もしかしたら)あるのかもね」と「物語として」読むのは良いのですが、では、この本に書かれていること(たとえば主夫に適した傾向など)が、本当なのか、というと、この本を読む限りは分かりませんし、僕としては「本当にそうなの?」と疑ってしまうところがありました。

その代表的なものは「主夫に「なる」納得出来るきっかけが必要」というものです。
後述しますが、白河さんはカテゴライズするのが好きなようで、「主夫に向いている人はこういう人」だとか、「現在主夫の人は6つに分けられる」、というようなことを書いています。
なので、その白河さんの中にあるカテゴライズというか主夫としての物語が合致する人は取り上げられているのだけれど、カテゴライズや物語に合致していない人はスルーされていると感じました。

そもそも、「シュフ」(男女とも)って「なりたいと思ってなる」ものなのでしょうか?
共働きでも、今の日本の社会では女性の方が育休や時短を取りやすかったりするので(もちろんこれが良いことだと言うわけではなく)、勤め先による時間的拘束が多くの場合男性より少なくなるので、家事や育児を費やす時間が多くなり、それが続いていった結果、女性が兼業主婦になるのでしょう。
専業主婦の場合も、結婚や出産という契機に仕事を辞めることによって専業主婦になるわけで、それは「シュフになりたいからなる」のとは全く違うものです。

女性の場合は「主婦に向いている人」や「主婦の人は6つに分けられる」というようなことを考えることはないのに、何故男性がその役割を担う場合には「その役割に適しているかどうか」ということや、「現在のシュフとしての役割、生き方をどのように受容しているか」をカテゴライズされなければならないのでしょうか?

「シュフになる」というのは、大学などの高等教育機関を卒業する時に「就職する」ということと同じようなものだと僕は思います。
別にそれは「なりたいからなる」ものでも、「向いているからなる」ものでもなく、「そういうものだからなる」だけです。
自分に向いているかなんて全く分からないけれど、みんながやっていることでもあるし、卒業しても何もせずに暮らすわけにも行かないので、就職活動をして、(中には自分がなりたかったり、最初から希望していた企業などに就職する人もいますが)たまたま内定をもらえた企業などに就職するのです。

殆どの人は「自分に何が向いているか」とか「自分が希望するから」という理由で就職はしていきません。
そんなことをもし言っていたら、ミスマッチが起きすぎて、ただでさえ正社員になれない世の中なのに、もっと正社員として就職出来ない人が出て来ます。

だから、「主夫」になったきっかけがさも感動的な話だったり、みんなが納得出来るような話であることに、「本当に女性も男性もみんなそんなストーリーがあってシュフになるの?」と思ってしまうのです。
我が家で、僕が主夫なのは、「僕の方が家事・育児に費やせる時間があるから」です。
男女問わずの社会的調査の結果などがあれば良いなと思うのですが、多くのシュフはそんなところなのではないか、というのが僕の実感です。

「男は~」とか「女は~」とかいう固定観念に縛られているのは誰なのか

上でも少し触れましたが、白河さんは何かをカテゴライズしたり、そこに人を当てはめたりするのがお好きなようです。
たとえば、主夫の妻4人との座談会のまとめでこんな文章がありました。

奥さまたちに会って分かったこと。みな「仕事が大好き」「楽天家」「オトコマエ」「休めないマッチョな業界や役職にいる」という共通点がありました。


このあとに続いて、上に書いた「主夫に向いている人」の条件のように、「大黒柱妻の条件」を書いています。
同じ文脈ではないのですが、このような「主夫に向いている人の条件」や「大黒柱妻の条件」などのような、何かの条件を満たすことによって主夫が可能になるというような考え方には、夫が会社を辞め、家族とオーストラリアに移住したフリーアナウンサーの小島慶子さんとの対談で小島慶子さんが指摘した言葉が一番的を射ていると思いました。

(働きながら母親をしていることに感じていた後ろめたさがなくなったのは)なぜならば、今は私が働いていないと、子どもが飢え死にするから。前は、働いてなくても、子どもは飢え死にしませんでしたから。


これは、大黒柱妻にも当てはまるのではないか、と思うのです。
大黒柱妻になったのは、何かの条件を満たしているからではなく、「自分が働かないといけなかった」というそれだけのことでしょう。

なぜそのような状況になったのかは、(多くの場合は夫の病気なのですが)その家庭それぞれですが、別に何かの条件を満たしていたから、そして相手(夫)が主夫に向いている条件を満たしていたから、主夫家庭になったわけではないでしょう。
もし、主夫やその妻に同じような傾向があるとしたら、それは家庭や社会で同じような役割を担っていることによるものとも考えられるのですが、それについては全く指摘がされていません。

僕が読んでいて、一番気になったのは、最終的に「各家庭で一番最適な働き方、生き方をその都度話し合って実践して行ければ良い」「多様な生き方があって良い」という結論があるにも関わらず、カテゴライズすることによって、何かしらの「前提」が生み出されていることでした。
上述しているようなカテゴライズや「向いている人の条件」などもそうなのですが、「男はこうだ」とか「男はこういう傾向がある」、あるいは「主夫の仕事量や質は育った家庭(特に母親)の影響が強い」というようなことが書かれていると、何故そんなことにとらわれているのだろう?と思ってしまいました。

僕の育った家庭は、専業主婦家庭で、父親は家事を一切やりませんでしたが、別にそれを反面教師にも教師にもしませんでした。
父は父であって、僕ではないし、母も母であって、僕ではないからです。
僕が主夫になったのは、結婚した時にツレが働いていて僕が学生だったからで、そして、その後フルタイムで働けると思っていた僕にいろんなアクシデントがあったので、仕事よりも家庭を中心にした生活を送るようになったからです。
それは母親の影響でもありませんし、父親の影響でもありません。
ツレとそして子どもとの生活を送る上で僕の最適な役割は何かと考えた結果です。

妻より収入が低いことを嫌がる男子中学生の話

でも、こういう「男はこうだ」とかいう考えは僕が思っているよりも根深いんだな、と実感する出来事がありました。
先日、僕がお弁当箱を洗っていた時の出来事です。
僕が昼休みにお弁当箱を洗っていると、男子中学生3人が話しかけてきました。

中学生「先生、また弁当箱洗ってるんですか?奥さんの手作りですか?」

僕「違うよー、自分で作るんだよ。奥さんのも僕が作ってるし。」

中学生「えっ?先生が奥さんのも作ってるんですか?」

僕「そうだよ。ごはんは基本的に僕が全部作ってるよ。」

中学生「ああ、そういえば先生、主夫でしたもんね。じゃあ、奥さんは何やってるんですか?」

僕「お金稼いでるよ、たくさん。」

中学生「奥さんの方が稼いでるんですか?」

僕「そうだよー、僕の何倍も稼いでるよ。」

中学生「それはイヤだな…

大体こんなやりとりがありました。
昼休みにお弁当箱を洗っていると話かけられて、「お弁当は誰が用意しているのか」とか「誰が食事を作っているのか」というような話をすることはこれまでもよくありました。

でも、今回印象的だったのは妻(=女性)の方が沢山稼いでいるということに明確な拒絶感を示したことでした。
僕はこのあと、彼らに「男は女よりも稼ぐもの」という思想を誰が植え付けたのか、どこで習得したのかが気になってしまいました。
まだ中学生なのにこういう考え方を持っていたら、大人になった時どうなるのでしょうか。

もちろん、どういう考え方の人がいても尊重しますが、「○○はこういうもの」というような、ある程度固まってしまった考え方を早い内から持つことはその後の生き方を狭めてしまうような気がします。
それは男女の性に関わることではなくても、人種、年齢、国籍など様々なものに置き換えることが出来るからです。
「○○人はこういうもの」「○○歳の人はこういうもの」「○○国はこういうもの」…。
実際の人間はもっといろんな人がいて、出会えば出会うほど、「○○は~」というような言い方が出来なくなってきます。

こういう「○○はこういうもの」というような価値観をなるべく揺らがせようということで、「主夫の友」の活動に僕自身は関わっているので、これからどういうアプローチが出来るのか、考えて行きたいと思いました。
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2016.02.26 Fri l 主夫の本など l top