先日、母校&出身学科の公開講演会に行って来ました。

文学部キリスト教学科主催 公開講演会 キリスト教の「家族主義」を考える ――クィア神学の視点から

1.講演の中身

講演者は、堀江有里さん。
日本キリスト教団の牧師(講演日現在は無任)で、レズビアンをカミングアウトしている社会学者・神学者です。

講演内容を要約するのは難しいのですが、LGBTs当事者に限らず「家族主義」あるいは、「家族第一主義」にとらわれているのではないか、という問いかけとそれに対する堀江さんの応答が発表されていました。
「家族主義」、「家族第一主義」がどのように現れているのかを、米国の流れ、聖書での描かれ方(特にイエスの時代)、教会における「結婚」の捉えられ方からひもとこうとされていました。

質疑応答では、堀江さんの聖書解釈が果たして妥当なのかどうか(血縁家族の解体から新しい共同体を構築しようとしているという読みに対して、むしろイエス(あるいは神)を頂点とした新たな「家族主義」を目指していると読めるのではないか)、何故日本では女性の牧師が少ないのかということなど、キリスト教内部(関係者)にとっては興味深いやりとりだったと思います。

2.あらゆる場で頻出している「post-truth」

でも、僕はこの講演(1時間)、そしてその後の質疑応答(1時間)の中で、最も肝心なことが触れられていないように思いました。

昨年末、世界最大の英語辞典を発行するオックスフォード英語辞典が「今年の言葉」として選んだのが「post-truth(ポスト真実)」でした。
「ポスト真実」が今年の言葉 英オックスフォード辞書(BBC)
これは、「客観的事実よりも感情的な訴えかけの方が世論形成に大きく影響する状況を示す形容詞」です。
具体的には、イギリス、アメリカでの状況を踏まえて選ばれた言葉なのでしょうが、この「post-truth」は今に始まったことではなく、今までもあったし、さらに政治の場面だけでなく、どこにでも起きていることなのだと思います。

今回の講演では、聴衆は「関心のある人」に限られ、質疑応答でも、学問的あるいは整然と自分の考え方を伝え、それに対して、学問的あるいは整然と反論あるいは自分の考えを伝えるということが行われていました。
学問の世界ではそれで良いのでしょうし、それが「ルール」でもあるのですが、僕(たち)が直面しているのは、そのような応答が出来る場ばかりではありません。

3.オブラートに包まれた「post-truth」

以前、僕が職場でLGBTsについて語ったとき、それに対しての反応を伝えられたことがありました。
その時に伝えられたのは、

「あの場にはふさわしくないのではないか」

ということでした。

また、僕が人から聞いたことのある話としてこんな出来事を聞いたことがあります。
ある男子校で生徒会選挙の際、1人の立候補者が自分がゲイであることを告白しました。
それに対して、1人の教員がその生徒を呼び出して「あの話(ゲイを告白したこと)はあの場にはふさわしくない」と伝えたそうです。

この時使われている「ふさわしくない」という表現こそが、まさに「post-truth」だと思うのです。
例えばキリスト教では、特に21世紀に入ってからというもの、世界中の教会で分裂するような課題になっているのが「同性愛をどう扱うか」というものです。
その時、まだ聖書を用いて「聖書にはこう書いてあるからダメなんだ」と言ってくるのなら、反対に聖書を用いて「聖書にはこう書いてあるから問題ではない」ということもできるでしょう(聖書を恣意的に用いることが適切かどうかなどの課題はひとまず横に置いておきます)。

でも、実際は「同性愛なんて気持ちが悪い」、「同性愛は病気である」、「同性愛者なんていなくなれ」というような考えが根底にあるにも関わらず(本人がそれを認識しているかどうかは問わず)、直接それを表明してしまうと明らかな差別になってしまうので、何重にもオブラートに包んで表明する言葉が「○○にはふさわしくない」という言葉なのだと思います。
事実や理論、そして学問がどうであろうと、「そんな話聞きたくもない」という自分の感情があり、それを伝える手段として、「そんな話をするな」というと圧力になり、「そんなのは正しい人間ではない」と言ってしまえば明らかな差別になる。

そのままの言葉を言ってしまえば逆に自分が批判される立場になってしまうかもしれないからこそ、「○○にはふさわしくない」という何重にもオブラートに包み、そして、他の人も「確かにそうなのかもしれないな」と思わせてしまう言葉を使うのです。
そして、その「○○にはふさわしくない」という言葉の最終目標は何かといえば、「その話を二度とさせない」ということです。
「ふさわしくない」あるいは「ふさわしくないのではないか」と言われた当事者にしてみれば、ふさわしくないならばその話をすることが出来なくなります。
これによって、「ふさわしくない」と言った人の嫌悪は表に出ることなく(本人も周りの人も気づくことなく)、同性愛というような当事者にとって告白することが人生においてものすごい大きな決断になることであっても、二度とそれについて語ることが出来なくなってしまうのです。

4.オブラートに包まれた「post-truth」にどう対処するか

このような「○○にはふさわしくない」という言葉や態度に対してどのように対処していけるのか、これこそが「神学」や「学問」ではなく、今現在僕たちの社会が抱えている課題なのではないかと思います。

今回の講演会では「クィア神学の視点から」ということだったので、必然的にLGBTsについての話になりましたが、他にも当てはめられるものはいくらでもあるでしょう。
また、僕が実際に経験したのは「ふさわしくない(ふさわしくないのではないか?←疑問にすることによってオブラートを強化)」という言葉でしたが、他の言葉のこともあるでしょう。
それらの何重にもオブラートで包まれているけれども、最終的には、それをやめさせたい、目の前から消し去りたいと思っている人の言葉を向けられた時、どうすれば良いのか。

それは、また同じことを語る、ということ、何度でも言うということなのだろうと思います。
「ふさわしくない」と言ってくる相手が望んでいることは、「その話を二度とさせないこと」。
だからこそ、止めてはいけないと思うのです。

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2017.01.23 Mon l 日々雑感 l top