先日、誕生日を迎え33歳になりました。
今年は、誕生日を迎えるにあたって、すごく小さな事ですが、今までとは変えたことがあります。
それは、Facebookで誕生日を公開しないようにしておいたことです。
Facebookは誰かの誕生日になると「今日は○○さんの誕生日です!」とか通知されるのですが、僕のが友だちたちに通知されないようにしました。

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なんでこんなことをしたのか。
それは、お祝いの言葉をかけられても、どうしたら良いのか戸惑ってしまうから。
そこまで親しくない人からのメッセージだからということではなく、「誕生日おめでとう」と言われても、どうしたら良いのか分からないのです。

何が「おめでとう」なのか。
特に、30歳を過ぎてから余計に分からなくなってきました。
単に老いること、中年への恐れではなく、何故今生きているのか分からないからです。

26歳の時に、鬱病になり、そこで終わるはずだった人生が何故か生き延びてしまい、7年も経ってしまいました。

先日、鬱病に追い込んだ人間や組織が不起訴になったという報道を見ました。
三菱電機、不起訴処分に 長時間労働、嫌疑不十分で(朝日新聞)
三菱電機は不起訴=長時間労働「嫌疑不十分」-横浜地検(時事通信)

鬱病に追い込まれた人は病気になり、仕事を辞めることになる一方、鬱病に追い込んだ人や組織は何も傷を負うことがない。
僕を鬱に追い込んだ人たちや組織は三菱電機以上に最悪で、僕を鬱病にしたとは認めず(医師の診断があるにも関わらず)、認めなかったからこそ、それ以降何の責任も取らず何も起きなかったように過ごしています。
それらの人たちや組織については、もはや何も思うことはありませんが(「思う」ということでさえ関わりたくない)、何故その時に僕は死ななかったのだろうか、と思います。

結局僕はあのときから何も進んでいないどころか、むしろ年を取るだけで後退しているのではないか。
後退しているだけで進むことがないのなら、何故あのときもっと真剣に死に向かわなかったのだろうか、と。
26歳の時から年を取れば取るほど、そこからの時間が経てば経つほど、何故生きてしまっているのか、という思いは強くなってきます。

ぐるぐるぐるぐると色んなことを考えては、結局どこにも行き着く先はなく、漠とした不安や自分が必要とされているという実感を全く持てない中、今年も子どもたちに「誕生日おめでとう」と言われ、どう応えたら良いのか戸惑いつつ誕生日を迎えました。
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2017.02.04 Sat l 日々雑感 l top