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最近、コミュニケーション不全でストレスを抱えるようになりました。

「言った」「言われてない」ということも大きな問題ですが、それは紙に残したり、メールやLINEにして「残す」ことで「言った」「言われていない」という記憶違いは防ぐことが出来ます。
そのような「残す」こともしないで「言った」と主張する人がいること自体も大きなストレスなのですが、より深刻だなと僕が感じていることが、言ったかどうか、よりも「相談したか」ということです。


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日々生活していると何かを「決定」していかなければなりません。
食事のメニューや買い物をどこでするのか、という家事に関すること、仕事などで外出する際には、どのような経路で行くのかということも決定していっています。

何故、食事のメニューを決定するのかといえば、食事を用意するのが【自分】であり、買い物をどこでするのかを決定するのは、買い物をするのが【自分】だからです。
自分自身のこと、つまり当事者であるから、決定するのです。
逆に言えば、その「決定」にかかわっていなければ、当事者ではない、ということになります。

食事のメニューの決定にかかわっていないということは、その食事を作ったり食べたりするのは自分ではなく、買い物をどこでするのか決定しないということは、自分で買い物に行かないからです。
買い物に「付いていく」ことはあるかもしれませんが、それは「付いていく」というだけで、主体性はなく当事者ではありません。


この何かを「決定」する際に、その「決定」にかかわったかどうかが、その人が「当事者」かどうか、「当事者性」を持つことが出来るかどうかに大きくかかわってきます。
他人が決定したものを知っただけでは、とても当事者であると認識したり、当事者性を持つことは出来ません。

じゃあ、誰かにも当事者であると認識してもらいたい、当事者性を持ってもらいたい、と思ったらどうすればいいのか。
それは、決定を下す際に、かかわってもらうことです。

決定を下す前に「相談」し、意見を聞く。
そうすればその意見を聞かれた人は自分の意見が反映された結果での「決定」に当事者として認識することが出来るでしょう。

逆に、既に何かしらの決定をしたものを、報告しただけでは、その話を聞いた人は意見を言う場もなく、意見を求められてもいないので、その「決定」に当事者としての認識を持つことは出来ないでしょう。

一応広辞苑で調べてみると以下のように書いてありました。

【相談】
互いに意見を出して話しあうこと。談合。また、他人に意見を求めること。

【報告】
しらせつげること。報知。
②ある任務を与えられたものが、その遂行の情況・結果について述べること。また、その内容。


何かを「決定」する際に、僕は常々「相談されていないことにはかかわることは出来ない(かかわりたくない)」と思っていて、それを伝えるようにしています。
それは、何故かと言えば、当事者としての意識を持つことが出来ないからです。

でも、相手は「相談した」と言ってくることがあるのですが、それは【相談】と【報告】ということの違いをその人が分かっていないということがようやく僕も気づいてきました。
僕に「意見を求め」ていないにもかかわらず、それを【相談】と相手は認識し、「意見を求め」られていないので、僕はそれを【報告】と認識する。

【報告】された僕としては、その決定にかかわっていると認識することは出来ず、当事者として認識することは出来ません。
でも、相手は【相談】したと思っているから、僕に当事者としての行動を求めてくる。
このズレに僕としては大きなストレスを感じることになります。


殆どの人にとって【相談】と【報告】が全く違うことだということは当然のことかもしれませんが(そうであって欲しい)、この【相談】と【報告】の違いが分かっていない人によって最近ストレスを感じることが多々あったので、改めて書いてみました。
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2017.04.15 Sat l 日々雑感 l top
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