先日、子どもの習いごと(水泳)の付き添いに行き、観覧席に座っていると、隣に座っていた女性たちの話が聞こえてきました。
(ちなみに基本的に僕はいつも読書しつつ、子どもの泳いでいる様子を観ています。
でも、さすがに隣で話をされていると、気になる会話は聞いてしまうのです。)

話をしていたのは、女性3人、子どもたちは話の内容(寝ている時間だとか、宿題の内容など)から1年生か2年生くらいのようでした。女性の1人は区内にある国立小学校のランドセルを持っていたので、この女性たちの子どもの2人か3人は同じ小学校に通っているようでした。

子どもが通う小学校での出来事、特にトラブル(ある女の子がちょっかいを出され、運動会のある種目に参加出来なかった等)が話されていたのですが、そこで気になった発言がありました。

「担任の先生が男の先生だから(教室内、学校内での子どものトラブルに)気づかないのかも」
「幼稚園の時は女の先生だったから、色々話してくれたけど、男の先生だからあんまり話もないし」



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その女性たちの話では、担任の先生が「男の先生だから」、教室内でトラブルがあっても気づかれておらず、日常の些細な出来事は「男の先生だから」保護者に連絡がない、ということになっていました。

これって、「男の先生だから」なのでしょうか?

教室内、学校内で子どもたちがトラブルを起こしていても、気づかない人は男だろうが女だろうが気づきません。
逆に気づく人は男だろうが女だろうが気づきます。
その場にいる時間の長短で気づきやすい、気づきにくいということはありますが、そもそもは性別によるものではなく、その個人の能力なのだと思います。

「個人の能力」と言ってしまうと、あたかも先天的なもので、後からその能力を伸ばせないように感じるかもしれませんが、そうではありません。
ある程度その能力を伸ばすことが出来ます。

度々紹介している渋谷でバーを営んでいる林さんが、先日、こんな投稿をしていました。



人間観察をなぜするのか、という問いに答えたものですが、トラブルを防ごうという意識で子どもたちの様子をみていれば、人間観察をするようになり、そして、トラブルに気づいたり、トラブルになる前に気づくようになります。

なので、「男の先生だから」気づかないのではなく、単にその人が気づかないだけなのです。
経験の浅い教員なのかもしれませんし、教員歴は長くても本人がトラブルに関して意識的ではないのかも知れません。

どちらにせよ、それは性別によるものではありません。

些細な出来事の連絡がない、ということも、女の先生だから連絡があったというわけではなく、小学校だからじゃないかな、と僕は思います。
子どもたちを幼稚園に通わせたことはありませんが、保育園では毎日送っていき、お迎えに行っていたので先生と顔を合わせていましたし、連絡帳では毎日やりとりがありました。
だから、特に何でもないような些細な事でも連絡がありました。

でも、小学校では送り迎えはしないので、担任でさえ顔を合わせる機会は殆どありませんし、連絡帳でやりとりしたり、先生から連絡があるのは、何か具体的なケガだったりがあったときだけです。
些細な出来事まで先生が逐一連絡帳にクラス全員分書き込んだり、電話してきたりしていたら、先生たちの仕事はいつまでも終わりません。
だから、これも「男の先生だから」ではなく、小学校だからなのではないか、と思います。

もう、そろそろ性別で切り分けるのはやめにしませんか?
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2017.05.31 Wed l 日々雑感 l top